佐賀県鹿島市の生涯学習センター「エイブル」は、
ホールの貸出し、設備レンタル、イベントなど随時開催している文化施設です。

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2階ホール前に飲料の災害対応型自動販売機を設置しました。

2階ホール前に飲料の災害対応型自動販売機を設置しました。

鹿島市生涯学習センター エイブルでは、

かねてから要望がありました飲料の自動販売機を、

2階のエイブルホール前に設置しました。どうぞご利用下さい。

ただし飲料はホール客席には持ち込めませんのでご注意ください。

災害対応型となっていますので、災害時は無料でご利用になれます。

 

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新着情報 2018/06/28エイブル
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文(ふみ)月に想う

7月23日は「ふみの日」、昔は手紙のことを玉梓(たまずさ)といって、相手から届いた手紙を敬っていました。

七月二十三日はふみの日。昔は手紙のことを玉梓(たまずさ)と言いました。

 これは、古代、使者が手紙を梓(あずさ)の木に結び付けて持参したことから、やがて、相手からの手紙を敬って口にするとき、玉梓という言い方をするようになったとか。

 梓の木は、別名を「木王」といい、百木の長として尊ばれ、木目が細かいので、中国では版木に用いたのだそうです。

 「梓にちりばめる」といえば、出版するという意味。上梓(じょうし)という言葉も同じ由来。

 ちなみに、日本では、版木として桜の木を使っていたそうですが、上桜とはいいませんね !

 最近は、インターネット社会と言われるように、手軽にメールやラインでの取りを行えるようになりました。そこで使われるデジタル文字は、ほとんどすべてが同じ字体・字形で、しかも文章は、省略や短文が多いようです。

このように私たちはインターネット環境がよくなり、手紙を書く機会が少なくなりました。一文字一文字に心を込めるということが、手紙ならではの良さのはずなのですが・・・。

 話し言葉ではなく、手紙での改まった言葉だからこそ伝えられることもあると思っています。

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館長コラム 2018/07/01エイブル
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強者(つわもの)

強者は、もとは「つばもの」。つばとは、刀の「鍔」のこと。もともと武具を表していたのが、今では鍛えあげられた心と技の持ち主のこと。

「夏草やつわものどもが夢の跡」

芭蕉が詠んだ平泉の地は、かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を夢見たところです。

知るや知らずや、この夏草を眺めていると、すべてが一炊の夢と消えた哀れさに心が誘われると、芭蕉が詠んでいます。

さて、この「強者」とは、「つばもの」から変化したもの。もともとは、武器や武具のことでした。「つば」は「鍔」、刀の鍔のことです。

 やがて、兵士をさすようになり、次第に勇気のある強い武士をさす言葉になりました。「兵」は一文字で「つわもの」と読むこともあります。

 今では、武器という意味では使われなくなりました。すぐれた技量と精神力を持ち合わせた人こそ、どんな武器にも勝るということなのでしょうね。

 人は生まれつきの強者はいません。

あんなに小さくて弱い赤ちゃんが、やがて強者に成長していく過程には、自分の心と体を磨き続けた、それぞれの歴史があってのことだと思います。

スポーツで、芸術で・・真の強者が見せてくれる夢の舞台は、私たちに勇気や感動や元気を与え続けてくれます。大げさに言えば、私たちの心の栄養であり、心の体力をつけてくれていると感じます。

                 エイブルの木8月号「エイブルからこんにちは」より

                                 館長  永池 守

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館長コラム 2018/08/01エイブル
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露華(ろか)

~白露の日に~ 露は、雨上がりなどは宝石のように輝き、私たちの目を楽しませてくれます。宝石にも例えられるほどです。でも、儚(はかな)いものの代表ですが・・・。

露 華(ろか)

~白露の日に・・・~

雨上がりに、きらきらと光に輝く露の美しいこと。一面に露が降りると、本当に丸い小粒のガラス玉の花が咲いたようです。

花にたとえられるだけではありません。宝石にたとえて「露珠(ろじゅ)」や「玉露(ぎょくろ)」とも呼ばれます。

昔、露と言えば、儚いものの代名詞。「露ほどの」と言えば「ほんの少しの」という意味。特に、「露の命」「露の世」「露の身」など、命の儚さにたとえられることが多かったようです。

いたずらに命の儚さを嘆いてきても仕方がありませんが、確かに、命は儚いもの。

そして、その短さ、儚さを知ったところから始まる物語もあるはずです。

子供のころには、考えもしなかった、仲間の死や親の死に出会い、人生には必ず終わりがあるのだと気付き始めます。

そして、やがて『よりよく生きることはよりよく死ぬこと。よりよく死ぬことは、よりよく生きること。』などと考え出したりして・・・。

命の尊さ、時間の尊さを知っているからこそ、よりいっそう深まるものではないでしょうか。

これから、人生100年と言われる時代に突入していきます。

露ほどの人生などと言えないかもしれませんね。

                                                  

                                                   エイブルの木9月号「エイブルからこんにちは」より

                                 館長  永池 守

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館長コラム 2018/08/20エイブル
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夢の途中

来生たかおの作詞作曲「夢の途中」はよく歌ってました。人間は、夢を見る動物。人生は夢がないと、生きていけない。

~ 夢の途中 ~

♪『さよならは別れの言葉じゃなくて/再び会うまでの遠い約束/今を嘆いても胸を痛めても/ほんの夢の途中/このまま何時間でも抱いていたいけど/ただこのまま冷たい頬をあたためたいけど・・・』(来生えつこ・たかお作詞作曲)とありますが、私の世代が、よく歌っていました。

また、薬師丸ひろこ主演の映画『セーラー服と機関銃』の主題歌にも出てきます。歌詞が若干違いますが・・・。

さて、「夢」の語源は、眠って見るから「寝目(いめ)」だそうですが、人は、眠らずにも夢を見ることができます。そして、夢を追い続けたり、あきらめたり、あきらめきれなかったり・・・。

途中でやり残した夢を残夢というのに対して、あきらめきれないような夢を「見果てぬ夢」といいます。同じ夢の途中でも、少し違いますね。

死ぬまで夢を追い続ける限り、夢の途中で最期を迎えることもあるでしょう。しかし、自分で、「見果てぬ夢」を作っている場合もあるかもしれません。

夢に背中を向けながら、あきらめきれないと思っていたら、永遠に「見果てぬ夢」のままで過ぎて行ってしまいます。

いつまでも、夢を持って、追いかけて行くほうが、明るい希望と元気がわいてきますね。

                 

                 エイブルの木10月号「エイブルからこんにちは」より

                                 館長  永池 守

 

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館長コラム 2018/09/20エイブル
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言葉が育つとき

子どもの言葉は、互いの気づきの中で豊かに伸びやかに育っていきます。

 毎月一回行われる幼稚園のお誕生会。保護者は、我が子の晴れ姿、成長の証として一目見ようと参加してくださいます。

 さて、誕生会のメイン行事、一人一人へのインタビュー、一番注目される場面です。

 おうちでインタビューを何度も練習、でも何度聞いても「仮面ライダーゴーストになりたい。」と答えるA君。でもママは、もう年長組なので「えーっ、なんでゴースト」とちょっと不満そう。

きっと、サッカー選手とか野球選手と答えてほしかったようです。ゴーストじゃ、現実離れしていると思ってしまったのでしょう。

そこでいよいよ本番のインタビュー、A君の番です。すると、いつも元気なA君、自信なく小さな声で「ゴースト」とつぶやきます。

そこで、先生はA君に近寄って行って一緒になって「ゴースト」とはっきり、みんなに伝えます。それを聞いたみんなは、「ゴーストだね。Aちゃん好きなんだよね。いいねー。」と答えてくれます。A君はニコニコ笑顔です。

そしてママは、うちに帰ってからA君に尋ねます。「どうして元気がでなかったの」と。すると「へんだよって言ったから」とつぶやきます。そのことからママは気づきます。自分が原因だったと。

先生や友達はみんなA君のことを知っていて受け入れてくれているのに、自分だけが受け入れていなかったと気付いたのです。

こんな気づきの中で、子どもの言葉は、幼稚園の先生、友達、おうちの人の中で豊かに伸びやかに育っていきます。 (幼小連絡会の記憶より)

 

                 エイブルの木11月号「エイブルからこんにちは」より

                                 館長  永池 守

 

 

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館長コラム 2018/10/16エイブル
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大童(おおわらわ)

大童の語源を知ると意外な事実!敗戦間際の武士のざんばら髪のことらしい。

 

大童(おおわらわ)

 昔は、元服すると、髪を結うことになっていました。それが成人したしるしだったのです。そして、子どもの間は、髪を垂らしていました。これを童髪(わらわがみ)といいました。

 武士が戦などで大奮闘して、髻(もとどり)がとれたり、兜(かぶと)が脱げたりして、ざんばら髪になることを大童(おおわらわ)といいます。

 大きなおかっぱ頭といったところでしょうか。

 さて、師走を迎え、忙しい毎日、大童でがんばっていませんか。

 そんな時、髪の毛を振り乱したものすごい形相の武士を想像してみてください。思わす、ふっと、我に返ることができるのではないでしょうか。刀は折れ、矢も尽き、思わす倒れそうな武士に自分を重ねてみてください。ちょっと、笑いがこみあげてきませんか。

 武士が大童になるときは、たいてい敗戦が濃厚な時です。

 「あいもせんば、こいもせんば、ああ、どぎゃんしゅうかにゃ!」と年の瀬に時間と格闘している大童の我が身、まさに敗戦濃厚!

 敗戦間際の武将にならないように、余裕をもって、やがて来る年を、あれもしよう、これもしようとみんなで笑って楽しく迎えたいものです。

どうぞ、忙しさを相手に、玉砕しないでくださいね。

                エイブルの木12月号「エイブルからこんにちは」より

                                 館長  永池 守

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館長コラム 2018/11/22エイブル
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正念場(しょうねんば)

正念場~本当の自分を演じるとき~                              それぞれの正念場、本当の自分を演じる時と思い、一番自分らしく堂々と、この一年を乗り切ってください

正念場(しょうねんば)

~本当の自分を演じるとき~

歌舞伎や浄瑠璃では、役の性格や心の持ち方のことを「性根(しょうね)」といいます。そして、性根の深いところまで汲み取って、じっくり表現する場所が「性根場」。

一番の重要な見せ場です。それに、仏教用語の「正念」が結びついてできたのが「正念場」だといわれています。

 仏教用語の「正念」は、雑念を払い、真理を求める心をいつまでも忘れないことで、平常心と置き換えられることもあります。

 誰でも、ここが正念場と思えば、何が何でもがんばろうとします。でも、本来の意味からすれば、無理して、踏ん張るところではなく、つまり、役者ならその役になりきる。自分なら、本来の自分になりきればいいのです。

 いつもと違うように頑張ってしまうことは正念場にはふさわしくないのかもしれません。

 しかし、わが身を振り返ると、大勢の人まえや何か事が起きた時には、上手くやろうと頑張り過ぎて、平常心ではいられません。心臓の鼓動が高鳴り、無駄に力んだり、緊張したりしてしまい、大失敗したことが山ほどあります。その度に、もっとしっかり落ち着いておけばよかったと反省しきりです。

それぞれの正念場、本当の自分を演じる時と思い、一番自分らしく堂々と、この一年を乗り切ってくださいね。

                エイブルの木  1月号「エイブルからこんにちは」より

                                 館長  永池 守

 

 

 

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館長コラム 2018/12/18エイブル
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生きる

瀬戸内寂聴さんの鹿島市での講演記録より 一日一日を誠実に、自分に優しく、人にも優しく!

~ 生きる ~

三〇年程前、鹿島市で、瀬戸内寂聴さんが女性を対象に講演された、「生きるよろこび」と題したお話の中で、次のように語られています。

「・・・人が生きるということは、自分の中に与えられている、自分の気づかない、先祖からもらった可能性の芽を発掘し、大輪の花を咲かせることだと思います。普通の奥さんになり主婦として子供を育てる。それで花を咲かせていることになるの?と思っている人がいるかもしれませんが、有名になったり、ミンクのコートを着たり、ダイヤの指輪をつけることではなくて、周囲の人たちや町の人たちに「あの人に会うと心が和むね。」といわれるような、そんな存在になることだと思います。自分にできるだけ誠意をこめ、自分の生活を大切にし、生き、周囲の人にも愛をふり注ぐ。そういうことが人間として生きる最高の喜びと考えます。・・・」

格差社会と言われて数十年。

私たちは、どのように、この世間を渡っているのでしょうか。

巷には「自己責任」という言葉が幅を利かせ、なぜか不寛容になってきたように思うのは私だけでしょうか。

経済最優先の中で「人が生きる」とは、どういうことなのか、もう一度、想像しなおしてみるのもいいかもしれません。

「びりの子の貰う拍手や風光る」の句が持つ味わいのようなものがあれば、少しは救われますね。

                                               エイブルの木2月号「エイブルからこんにちは」より

                                 館長  永池 守

 

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館長コラム 2019/01/21エイブル
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生きる

30年前の鹿島市の文化講演会、瀬戸内寂聴さんの言葉より

~ 生きる ~

三〇年程前、鹿島市で、瀬戸内寂聴さんが女性を対象に講演された、「生きるよろこび」と題したお話の中で、次のように語られています。

「・・・人が生きるということは、自分の中に与えられている、自分の気づかない、先祖からもらった可能性の芽を発掘し、大輪の花を咲かせることだと思います。普通の奥さんになり主婦として子供を育てる。それで花を咲かせていることになるの?と思っている人がいるかもしれませんが、有名になったり、ミンクのコートを着たり、ダイヤの指輪をつけることではなくて、周囲の人たちや町の人たちに「あの人に会うと心が和むね。」といわれるような、そんな存在になることだと思います。自分にできるだけ誠意をこめ、自分の生活を大切にし、生き、周囲の人にも愛をふり注ぐ。そういうことが人間として生きる最高の喜びと考えます。・・・」

格差社会と言われて数十年。

私たちは、どのように、この世間を渡っているのでしょうか。

巷には「自己責任」という言葉が幅を利かせ、なぜか不寛容になってきたように思うのは私だけでしょうか。

経済最優先の中で「人が生きる」とは、どういうことなのか、もう一度、想像しなおしてみるのもいいかもしれません。

「びりの子の貰う拍手や風光る」の句が持つ味わいのようなものがあれば、少しは救われますね。

                エイブルの木  1月号「エイブルからこんにちは」より

                                 館長  永池 守

 

 

 

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館長コラム 2019/01/25エイブル
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