長月(9月)の有明の月
『いま来(こ)むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出(い)でつるかな』(古今和歌集恋四)大体の意味は、「すぐに行くよとあなたが言ったばかりに、長月の長い夜、ずっと待ち続けていたら有明の月が空に出ていたことだ。」
結局は、待ち続けていた人が来なかったという恋歌でしょうか。
この「待つ」という行為は、その時間、想いを廻らし、相手のことや物事を言葉で想像し広げる時でもあります。
現代は、想いを届けるには、瞬時に届くメールやLINE。短文での言葉のやり取り。その文字には表情は無く無機質なもの。そこでは考える時間はなく瞬時の反応で済ませてしまいがち。そして「既読」にならないからといってトラブルも発生する始末。便利さがもつ危うさのひとつかもしれませんね。
さて、コロナ禍の中、仲間と会えないで「待つ時間」が生まれた中学生からこんな歌が生まれました。
「暇な日々/出てきた古い学年だより/集合写真/活力に変えて」(県外中学校の学年便りから引用)会えない待つ時間が、言葉を育て、思考を深め、仲間を想う活力に変えさせてくれているようです。
今も昔も「待つ時間」が、言葉を育て、思考を育ててくれることには変わりはありません。しかし、私は、有明の月が出るまでもは持てないかも知れませんが・・・。
エイブルの木9月号より 永池 守